赤い糸の伝説
第2章 能登島の皇太子

能登島の皇太子
   


 
七尾に着いた。車夫の赤銅色の肩から汗が吹き出てきた。それがみるみるうちに滝のように流れ出している。球形の汗の粒に灼熱の太陽がまぶしく反射していた。
波止場では、潮の匂いとポンポン蒸気の重油の匂いが重なり合っている。年に一度の懐かしい匂いである。船が岸壁を離れ潮風が心地よい。周りの景色に飽きると人一倍好奇心の旺盛な私は船の機関室を覗き込み、ダルマエンジンとピストンが、轟音とともに激しく動く様を食い入るように見入っていた。操舵室には日焼けした顔に深い皺が何本もある老人が片手で舵をとりながら美味そうにタバコを吸っている。何箇所かの集落毎の船着場を巡っての3時間の船旅も、好奇心が時間が経つのを速くしてくれた。勝尾崎に着いてからも、田舎の風景全てが少年にとって珍しく、そして冒険心をくすぐるものであった。





  母の実家に着いたとたん、伯父が「おっ、皇太子が来た!」と言って私達のことを諸手を上げて歓迎してくれた。というのも、私の服装といえば、糊がききすぎて鎖骨が痛くなるような純白の開襟シャツ、びしっとアイロンがあてられた紺の半ズボンにハイソックス、学帽には日差しよけの白いカバー。そして、なんといっても当時の小学生は絶対履かない、歩くたびにカチカチ音がする本皮の靴を履いていたからである。

  姉、妹といえば、二人とも「サウンドオブミュージック」のハイキングのシーンに出てくるような格好で、手には籐製のバッグを持っていた。母はといえば、普段の地味な服とは違って、いつもより綺麗にみえた。4人の子供をここまで育てた、ということを実家に示したかったのでしょう。私の革靴は、全ての背広がオーダーメイドでないと気がすまない、それも何十着も持っている伊達男の父が、近所の靴屋でわざわざ作ってもらった代物だった。その「皇太子」も母屋の玄関をくぐって30分もしないうちに、パンツ1枚になり、従姉妹たちとふざけあいながら井戸で冷やされた西瓜にかぶりついていた。



  能登島での生活は子供にとって見れば、まさに「生物図鑑」そのものである。母の実家は半農半漁の生活を営んでいた。
 母屋から歩いて5分で海岸の岩場にたどり着く。そこは漁のための小さな船着場にもなっていた。道端には真っ赤に熟れたトマト、太く大きく垂れ下がった胡瓜、鮮やかな藍色をした茄子などが、たわわに実っていた。
 私は朝から夕方まで、ずーっと海で遊んでいた。干潮時の潮溜まりには、小さな水族館の生け簀の如く、いろいろな生物が素手で捕まえられるぐらい身近に見られた。ヤドカリ、いそぎんちゃく、小魚、子えび、巻貝(当地では「しただみ」といって、子供のおやつ代わりにもなる貝で、塩茹でして縫い針で身を出して食べた。独特の海の香りがして、私にとっては大好物だった。)その他いろいろな生物が、澄んだ潮溜まりに所狭しと言わんばかりに生息していた。その生物の動きを見ていると時間と腹が減るのを忘れるぐらいであった。



  伯父は早朝、前の晩に仕掛けた網を引き上げるため舟を漕いで出かける。一度私たちも連れて行ってくれた。「おい、皇太子も手伝え!」の一声で私達も渾身の力をこめて網を引いた。網には思ったより沢山の、そしていろいろな種類の魚がかかっていた。カサゴ、メバル、黒鯛、熱帯魚のようなシマシマのある魚(石鯛の幼魚)、オコゼ等が、次から次へとあがってきて、子供たちの歓声とともに銀鱗が朝日に輝いていた。


  それが私たちの朝食となる。今では考えられないほどの豪華な朝食でした。味噌汁には、つい先ほどまで生きていた15センチぐらいのメバル1匹が大きなお椀の中にあり、黒鯛の刺身も朝から付いていました。大きな台所では、腰の曲がった祖母がリウマチにかかって、曲がった指ではあるが、器用に魚をさばいていた。




  魚類図鑑を手にしながら、岩場での自分だけの優雅?な時間を持って自己満足に浸っていた「能登島の皇太子」も夕暮れになると、段々不安になってきた。このまま太陽が沈まなければ良いとも思い、夕日が憎いとも思った。このまま遊んでいたかったわけでもない。とにかく夜になるのが怖かった。その理由が、地球上の生物で一番嫌いなニワトリが私たちが寝ている部屋の床下に飼われていることでもなく、中庭にある大きな無花果の木の陰がお化けに見えることでもなかった。母屋から離れたところに有る便所に行くにはその中庭を通って行かねばならないということでもなかった。



  実は、「能登島の皇太子」は「夜尿症」だったのである。





 続く

第3弾「先祖代代の墓」請うご期待!
能登島へ赤い糸の伝説
つづく

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